我が愛すべきハンガリーのジレンマ

第8号   2001年3月30日

         川の水流を止めることはできない。
                  陸続きの国のジレンマ
   
      ハンガリー大平原を縦断するティサ川が昨年に引き続き雪解け
      で大洪水を引き起こした。家屋は水に浸かり建物は破壊され住
      民は避難所で途方に暮れた。政府は被害にあった建物や道路、
      橋などの再建に必要な予算を用意することを約束している。ル
      ーマニアとウクライナで川を共有し、洪水は国境向こうのカル
      パチア山脈からやってくる。向こうの国で洪水が起きない災害
      への対策を練ってほしいものだが、これらの国の財政は逼迫し
      政治も不安定だ。自国の対策は打てども水は流れてくる。ハン
      ガリーは歯がゆいばかりだ。

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   “我々は再びカゲロウTiszaviragの飛ぶ姿を見ることができ
   るようになると思うかね。この悲劇の結果としてティサのカゲ
   ロウが絶滅するかもしれない恐れがあるんだ。”セゲド大学テ
   ィサ川関連の生物学者兼研究員であるチズマズィア・ギョルギ
   博士Csizmazia Gyorgyは悲しそうに呟いた。“ティサの花”
   という名前のティサ川に生息するカゲロウの幼虫は、成虫にな
   る段階で川の中から水面に現れ、そのおびただしい群れがカー
   ペットのような形をつくる。“ティサの花”はハンガリー語で、
   はかない、うつろいやすい、という意味を持つ。

   ティサ川は、ハンガリー北東部に位置する見渡す限りの大平原
   を突き抜け、ハンガリー心臓部を縦断するドナウ川と平行に南
   下する。近年国内ばかりかドイツやオーストリアからも釣り客
   が増加し、110平方km(猪苗代湖とほぼ同じ)を有するテ
   ィサ湖はセーリングやサーフィン、ボート漕ぎなどのスポーツ
   で、ハンガリーの海と呼ばれるバラトン湖と同様、賑わうよう
   になった。自慢の郷土料理である川魚スープを出すレストラン
   も常に繁盛するほど観光地として人気の場所となった。

   ところが今年の春、国境向こうのカルパチア山脈での雪解けと
   大雨のため数万人にも及ぶ避難民を出すほどの洪水を引き起こ
   した。支流本流を含むハンガリー東部で広範囲に渡り、家屋が
   水浸しになり住民に避難勧告がでた。軍隊のヘリコプターが援
   助に出動し、被害地域の国道にせき止められた水をはくため、
   道路の一部を破壊した。首相による現地視察が行われ被害の遭
   った地域に対して必要な国家予算を投入する対策が国会で練ら
   れている。

   特に貧しい村での被害は深刻で、テレビ画面の向こうではレポ
   ーターが水に浸りながら、困り果て呆然としている農家の老人
   にインタビューをしている。ハンガリー南東部は農地や牧草地
   帯が広がりブダペスト以西とは経済的に歴然の差がある。貧困
   層の村での浸水は更に苦しい生活へと村人を追いつめる。ティ
   サ川で魚を獲り生計を立てている漁師の収入は壊滅的である。
   普段は少量の雨と日照りに苦しみ、近辺の農家や村や街はお互
   いに繋がりがなくそれぞれが孤立しているような地域だ。

   実はティサ川の大洪水は昨年春にも同様の理由で発生している。
   この時も軍隊やボランティアが多数出動し決壊した堤防の補強
   や物資の配達などに立ち働いた。数万単位の避難民や数千単位
   の家屋の浸水は今年と変わらない。

   ティサ川の氾濫は歴史を見てみると今に始まったことではない
   ことがわかる。1879年ティサの洪水によって現ユーゴスラ
   ビアの国境に近いセゲドの街が95%まで崩壊した。(当時で
   六千戸の家が崩れ、居住可能な家は三百軒しか残らなかった。)

   遥か昔、ハンガリーの真ん中を南に向かって流れるドナウ川と
   ティサ川は大平原を蛇行し洪水を繰り返していた。川の流れに
   より運搬される土砂が堆積してできた平野が本流に沿ってつく
   り出された。ハンガリー大平原は盆地上になっており、春の雪
   どけの時期にカルパチア山脈から流れてくる水量が許容範囲を
   超えると大量の水が盆地に溢れ返る。盆地は巨大な遊水池とし
   ての役割を果たしていた。そのためハンガリー平原は水利に恵
   まれ、洪水によって運ばれた肥沃な土で農耕や牧畜が栄えた。

   しかし19世紀半ば、蛇行していた川の流れを直線状に改修し
   高い堤防をつくったことにより流れが封じこまれてしまった。
   大地の一部は乾燥してしまい土地は痩せこけ生産性の高い農耕
   は望めなくなってしまった。

   ここ数年は洪水が起こらなかったので人々はそのことを忘れて
   いた。しかしいつまた洪水が発生してもおかしくない地形なの
   である。国として恒久的な対策を早々に打ってほしいと誰もが
   望んでいる。ところが水が押し寄せてくる源がハンガリー国内
   ではなく国家財政が潤沢ではないウクライナやルーマニアにあ
   るため、事を難しくさせハンガリーをいらいらさせている。

   国境をまたぐティサ川がハンガリーに引き起こした悲劇は洪水
   だけではない。昨年1月にルーマニアにある鉱山地区から有毒
   化学物質シアンがティサ川に流出、国境を越えてハンガリーを
   流れユーゴスラビアのドナウ川にまで到達した事故があったの
   は記憶に新しい。冒頭で紹介したカゲロウTiszaviragの絶滅危
   機を嘆くチズマズィア博士の台詞は、有毒物質シアンが川の生
   物の生態に及ぼす影響を愁えた時の言葉である。

   鉱山施設はオーストラリアの私企業とルーマニアの国営鉱山会
   社との合弁企業が半分づつ所有している。ティサ上流部の生物
   が大量に死に周辺の住民の健康が危惧され、国連が汚染被害の
   調査に乗り出した。当然工業や漁業、観光業への経済的打撃は
   非常に大きかった。国連環境対策本部は有害鉱山を設置する場
   合の許可と調査の再考などの数項目の調査を要求した。

   ティサ川周辺の経済と人々の生活は壊滅的打撃を受けた。”魚
   が死んだのは寒くて川が冷たかったからでシアンとは何も関係
   がない。”とまで言ったオーストラリア側。ハンガリー国民の
   怒り心頭したのは当然だ。

   残念ながら鉱山施設による汚染による諸問題は、今回のシアン
   流出に限らず古くから存在している。しかし、ハンガリー政府
   はその大小にかかわらずティサ川を伝って来る汚染の情報提供
   をチャウシェスク政権下のルーマニアに要求することはできな
   かった。環境汚染の事実自体公表されるわけがなかったし、社
   会主義同士その関係を崩すことは不可能だったため、解決方法
   は皆無であった。最近やっと情報公開が進んできたルーマニア
   だが未だ調査にはあまり協力的ではない。

   日本は国境を海で囲まれ、地続きの隣国が存在しない。日本国
   内での災害発生時において、隣国との政治的な損得や経済格差
   による対策の遅延といった問題に頭を悩ます必要が少ない。

   国境をまたがる災害が発生しても、言葉や習慣や国益が違うた
   めに問題解決が遅れたり余計な資金を使用することは陸続きの
   国の宿命である。日本にも台風や地震や山崩れなどの災害は数
   多くある。それでも、国がひとつの地形を形成しほぼ一つの民
   族で構成され国益が同じのため余計な労力や国費を使用しなく
   てもいいというのは幸運といってよい。災害などの問題解決に
   対して、日本の政治家や役人の腰が重く地方が中央政府からの
   必要予算獲得に苦心しても、言葉、習慣、経済格差などの壁を
   越える労力とは比較にならない。それは肌で感じ経験しないと
   絶対にわからない。但し、陸続きの国は長い歴史の中でその労
   力は“余分”とではなく“必要不可欠”と捉えている。逆に考
   えれば、日本人には感じるその“余分”なエネルギーを国の発
   展など他のことに費やすことができた。

   人体に及ぼす危険がある災害でも、ましてやそれが自国で発生
   したものではないにしても、相手国が動かなかったら時間は単
   にゆっくり流れるだけだ。隣国がなくて日本国内での問題解決
   が遅れるという状況は単に日本自身の責任である。家があって
   平和に暮らすということすら相手と交渉して勝ちとらなければ
   ならない。

   翻って、ハンガリーの心臓部を流れるドナウ川の上流はドイツ、
   オーストリア(スロバキアも含まれる)である。ドナウ川によ
   ってもたらされるであろう水害や様々な問題を解決してくれる
   豊かな資金を持っている。“アルプスの雪解けによる洪水は起
   こらない。ドナウ川は運がよかった。川の上流はお金持ちのオ
   ーストリア。川が洪水を起こしても問題は解決される。”と、
   ハンガリー人の友達が言う。ハンガリー側から見れば、豊かに
   映る国が問題を解決してくれるので自分たちの頭を痛める度合
   いが少なくて幸運だということか。と言うことは、経済的にハ
   ンガリーを自分達より豊かだと考えているルーマニアは、ハン
   ガリーに問題解決を預けてしまうのではないか。オーストリア
   はハンガリーに問題解決を預けられジレンマを感じることがあ
   るということをハンガリー人が断言し、それに当のハンガリー
   人が気が付いていないパラドックスに私自信が陥ってしまった。

   “いくつもの国境をまたぐ川なのだから、ティサ川もドナウ川
   と同様に連合して数々の問題をコントロールするプロジェクト
   を組まなければいけない。”友人は言うが、そのプロジェクト
   の主導権を握るのは誰になるのだろう。ハンガリーこそが責任
   と資金と強いリーダーシップを求められている。自分たちが西
   側諸国に求めるように。

   そして今日もハンガリー東部の洪水にハンガリー政府は頭を痛
   めている。

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   洪水の被害はかなりおさまったようですが、家が川に浸かって
   いる様子を目の当たりにするとちょっとショッキングです。ソ
   ルノックという街で写真に収めてきましたのでHPでご覧下さ
   い。ティサ川の洪水とブダペストは関係ないですが、昨日鎖橋
   周辺を歩いていてオーストリアのアルプス近辺からの雪解けの
   ためドナウ川もかなり増水しているのを確認しました。場所に
   よってはあと30cm、今年は大丈夫でしょうか?

   国境を流れてくるのは水だけでなく、“人”の問題も。いつか
   貧困の国から陸伝いで豊かな土地に流入してくる人をトピック
   にとりあげたいと思います。

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