我が愛すべきハンガリーのジレンマ

第36号   2001年10月20日

   ここの所、靄掛かった日が続くブダペスト。天気の不安定さが
   続くように、私の発行もちょっと不安定気味。先週は予告なし
   に靄に紛れてお休みしてしまいました。“気紛れな”発行にな
   らないよう気を引き締めませんと・・

        各民族の価値観は簡単には変わらない、
       世界のボーダーレス化など遠い夢?・前編

   ジプシー(Gypsy):1.世界各地に散在する漂泊民族。イン
   ド西北部が発祥の地といわれ、ヨーロッパ諸地域・西アジア・
   北アフリカ・アメリカ合衆国に広く分布する。共通の言語はイ
   ンド・イラン語系のロマニ語。髪は黒く皮膚の色は黄褐色色ま
   たはオリーブ色。放浪生活を続けるジプシーは、音楽・占い術・
   手工芸品制作などの独特な伝統を維持している。2.転じて、
   放浪生活をすること。また、その人。
   ―岩波書店・広辞苑より―

   日本人にとって“ジプシー”という言葉は、異国情緒に溢れて
   いると感じませんか。情熱的に奏でる彼らのヴァイオリンの音
   色は物悲しさに満ちており、その音楽に併せて踊るハンガリー
   舞踊のステップは何故だか日本人にも郷愁を誘います。

   ハンガリーは、ルーマニア、ブルガリア、スペインに次いでヨ
   ーロッパ38カ国の内、ジプシー人口が4番目に多い国です。
   “東欧はジプシーの国”という意識が西ヨーロッパでは定着し
   ており、ブダペストを訪れる観光客も“本物のジプシー音楽”
   の演奏を楽しみにしています。作曲家リスト・フェレンツが収
   集したハンガリーの民謡の殆どが、ジプシー音楽であると後年
   の作曲家バルトークに指摘されたことは有名な話です。

   一方ローマやマドリッドなどのヨーロッパ都市では、ジプシー
   はスリなど犯罪グループとして捉えられ、旅行中に子供のジプ
   シー団体には気を付けるように“注意”を促された方もいらっ
   しゃるはず。

   ジプシーとは一体どこから来て何をしている民族なのでしょう。
   実際に彼らのハンガリーでの位置を突き止めようとすると、
   様々な社会問題につき当たります。郷愁の音色という言葉では
   終わりにできない、浅黒い肌に黒いタキシードに身を包んだ、
   流浪の民の現代社会における様々な問題とは。

   前編・後編と2回に分けてご紹介していきます。

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   “毎朝友人にハロー、ジプシーと挨拶されて、最後には泣いて
   しまった。私はハンガリー人よ、って。友人にとってジプシー
   とハンガリー人に違いなんてないのよ。”お隣のオーストリア
   で短期の仕事をしていたハンガリー人が憤慨しながら語ってく
   れた。オーストリア人にとって二者の差異には敏感ではないが、
   ハンガリー人にとっては屈辱的なことである。しかし、ハンガ
   リー人は自国より後進国だと考えているルーマニア人とジプシ
   ーとの差異を、意識的にあまりつけていない。

   ジプシー(ハンガリー語でツィガーニcigany)は自らをロマ(人
   間を意味する)と総称している。徐々にではあるが、近年世界
   的にこの呼称が認識されるようになってきた。ハンガリー国内
   では、ロマは生活様式・言葉の相違から3つのグループに大別
   されている。緩やかにハンガリーに同化しながらハンガリー語
   を話すRomungro、自分達の伝統を未だ根強く継承しロマニ語
   を話すOlahRoma、古ルーマニア語を話すBeaRomaである。

   ハンガリーでの少数民族の割合が一番多いのがロマである。1
   997年の国勢調査で自らをロマと申告している者は34万2
   375人、申告をしていないロマを含めると全ロマ人口は推定
   で50−70万人、ハンガリーの総人口5−7パーセントにな
   る。

   ロマは元々インド北西部に住む民族で、イスラム教の勢力拡大
   に伴い西方へと移動していった。その途中ペルシア(現イラン)
   に長期間逗留し、彼ら独自の言語にペルシア語の用法が混在す
   ることとなる。12世紀頃にヨーロッパに出現し、ハンガリー
   定住も同時期であるという記述が残っている。移動をしながら、
   馬の売買や農耕器具の作成・販売などを行い生計を立てていた。

   1417年ハンガリー王ジグモンドが、彼らに国内活動におけ
   る安全保障を確約したため、多くのロマ達がこの時期にハンガ
   リーに流入する。幸運だったのは、通常行われるような民族の
   強制的な同化政策がなかったことだ。彼らの伝統的な習慣は、
   何の邪魔もなく無事に継承されていった。トルコとの戦争では、
   武器の製作や整備だけではなく、諜報活動を行う要員として扱
   われた。怪しまれることなく風の如く国家間の往来が可能であ
   り、仲間同士の強い絆によって成り立つ情報網があったからだ。
   1703年のハプスブルク家に対するハンガリー独立戦争では、
   ハンガリー側について参戦する。

   更には、国内辺境地にワラキア、モルダヴィア(現ルーマニア)
   からロマ達が流入。しかしハプスブルク家の女帝マリア・テレ
   ジアの時代になると、移動型民族ではなく定住型にさせようと
   試みたため、民族衣装・ロマニ語の禁止が発布され、ロマの伝
   統的な家族制度が崩壊していった。

   19世紀にはハンガリーにも産業革命の波が押し寄せる。大量
   生産と交通網の発達を生み出し、彼らの伝統的な商習慣が完全
   に時代遅れになってしまった。加えて、ハンガリー国民の新し
   い時代への期待と不安の広がりと民族意識の高揚が、ロマに対
   する否定的な感情を増幅させていった。この変革期は、ロマの
   定住という彼らの生活習慣変更と、社会での最底辺の地位を強
   制した時代となる。

   第二次世界大戦のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコース
   トの影で、ロマ達がナチスの手に掛かってヨーロッパ全土で約
   60万人も犠牲になった事実は、あまり知られていない。

   “全ての人の雇用を建前としている共産社会主義時代に、何の
   技術もないジプシーが工場で雇われた時、他の従業員は本当に
   驚いていたわね。彼らへの給料は前払いされ、3日後にはどの
   ジプシーも働きには来なかった。誰だって予想がついていたこ
   となのに。でも会社の利益を考慮しない社会システムにはどう
   でもよかったみたい。”1960、70年代に電気系の技術者
   として働いていた友人が教えてくれた。

   戦後の共産主義時代に、ロマは“社会層の問題”として扱われ
   る。現政府の公式文書には、共産主義時代、工業化と全雇用の
   推進によってロマの仕事は保証されたと記されている。しかし
   主義によって与えられた職業は、定職という概念のない彼らへ
   の押し付けでしかなかった。また他方、大地主制を廃止して農
   業地の再分配が行われた際、ロマの農家には土地が分配されず、
   収穫期の季節労働者になった者が多かった。

   1989年の体制崩壊前後、永続性があるはずの国営企業が
   次々と倒産し、大量解雇が発生した。常に弱者に位置づけられ
   ていた社会的底辺のロマが、最初に犠牲になったのは想像に難
   くない。

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   ★★★★★★Szagamiのぶらぶらブダペスト散歩★★★★★★

   空模様がすっきりしなくなった途端、観光客がぐっと減ったか
   なと思いましたが、考えてみれば“他の”理由でしたね。ヴァ
   ーツィ通りのお土産物屋さんによると、事件後アメリカ人のお
   客さんがめっきり減ったとのこと。身近な所でも影響が出てき
   ているようです。

   来週火曜日は共和国記念日で休日になります。このメルマガで
   も“体制崩壊前・後”とよく使いますが、1989年10月2
   3日を境に前・後と表しています。今年も国会議事堂前でお偉
   いさん達の演説を見ることが出来るでしょう。

   マーチャーシュ教会も完全に入場料を徴収するようになり、ま
   た料金を払わずブダペストの全景が見える漁夫の砦周辺にはロ
   ープが張られ“景色が見たかったら入場料を払え”と言わんば
   かりの態度が見え見えです。ブダの丘はハンガリーの“日光”
   化してしまうのか?

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