我が愛すべきハンガリーのジレンマ

第53号   2002年5月10日

          経済的弱者を救えるか語学熱

   先客の用事が終了するのを、いつも世話になっている弁護士事
   務所の待合室で待っていた。全ての顧客を丁寧に出口まで送り
   出す弁護士は、椅子に座っていた私に軽い会釈をし、先客とロ
   シア語で話しを続けた。

   第二次世界大戦後の1940年代以降、ハンガリーの教育現場
   において、小学校から大学まで外国語の学習にドイツ語や英語
   を選択ができたが、第一外国語には必修科目としてロシア語が
   義務付けられた。ソ連の衛星国として、忠誠を誓う目的のため
   に押し付けられたようなものだった。ロシア語に堪能であるこ
   とは、公官庁、共産党内で幹部に昇進できる多くの可能性を与
   えた。当時は、個人の仕事の能力以上に、ロシア語の語学力が
   重要ポストに就くための項目の一つとされていた。

   旧共産圏内であれば、どの国民にもロシア語の知識は多少ある。
   特に前述の弁護士は、ロシア語の能力を職業上有効活用した世
   代である。しかし最近では、それは過去の遺産となりつつある。
   ロシア語圏以外の国にてロシア語での会話を耳にすると、徐々
   に埃がかぶり始めた共産時代の残り香を嗅いでいるように感じ
   るのは、異邦人の単なる共産主義に対するノスタルジーだろう
   か。

   当のハンガリー人にとっては心理的に反発を持つ国の言葉だっ
   たため、半ば強制的にロシア語のカリキュラムを組んでも、流
   暢に話すことができれば仕事や生き延びる上で有利ではあった
   のにもかかわらず、ロシア語は一般に普及しなった。今ではロ
   シア語を話せることすら口にしたがらない。

   “共産時代は学校でロシア語と英語を教えていましたが、義務
   とその機会がなくなったのでロシア語なんてきれいさっぱりと
   忘れてしまいました。キリル文字の記憶すら遥か彼方です。”
   現在は外資企業で英語を駆使する40代後半の女性が、興味な
   さそうに語った。

   翻って共産主義が崩壊してから既に十数年経ち、EU加盟へ
   着々と準備している現在では、一時期の日本と同様の語学ブー
   ム(但しロシア語以外の)がハンガリーを席捲している。新聞
   や、近年竹の子のように登場してきた無料の週刊情報誌には、
   数々の語学学校や個人レッスンの広告が掲載されている。

   民間の調査機関によると、18歳以上でドイツ語を多少話せる
   ハンガリー人は17パーセント、英語に関しては13パーセン
   ト、流暢に操るレベルになると、ドイツ語2パーセント、英語
   3パーセントである。国による外国語検定試験の英語の受験者
   は、1980年では9千人であったが、1987年には3万人、
   2000年には12万人の受験者数へと急上昇している。体制
   崩壊の直後である十数年前に、先を見越した親が子供を学校入
   学前の5歳くらいから外国語を習得させようと語学コースへ通
   わせ、それが現在の語学熱にタイミングよく結びついたことも
   あろう。ハンガリー科学アカデミーの調査によると、1997
   年には経済界のエリートの58パーセントが英語を、57パー
   セントがドイツ語を話すと報告している。

   ドイツ語の汎用度が英語と同様、またはそれ以上に高いのは、
   ハプスブルク帝国統治時代の影響があるからだ。オーストリア
   人を含めドイツ人系には過去にハンガリーがドイツの属国であ
   ったという意識が残っており、特にオーストリア寄りのハンガ
   リー西部地域などでは、彼らはドイツ語で事を済ませようとす
   る。ハンガリー最大の湖バラトンはドイツ人系に根強い人気の
   ある観光場所で、シーズン中にはドイツからのチャーター機が
   バラトン湖に週1便往復している。ドイツ語の需要はドイツ人
   系の歴史上の属国意識と観光業とに結びつき、ハンガリー人が
   選択する外国語を自ずと決定させている。

   外国語を習得し使用することで、元手がかからずに経済的に優
   位性を見出せる環境が語学ブームを後押しし、更には向上心の
   ある者から益々語学習得に勤しむようになる。しかしそれは安
   易に泡銭を得ることを可能にし、基本的な生産行為を消失させ
   る。例えば、中央統計局発表の資料、新聞社等のニュース・ソ
   ース、書籍などの出版物など、外国語に翻訳されただけで、ハ
   ンガリー語版の1.5−数倍にもなる法外的な値段がつけられ
   る。

   ところが、公官庁という、マジャール語が解らなければ外国人
   にとって全く用の足せない地域へ足を一歩踏み入れると、事態
   は全く逆になる。外国人への各許可証を発行する警察管轄の役
   所や市役所、病院等で、日頃ハンガリー人に対して母国語で鷹
   揚に日常生活を通している外国人が肩身を狭くするはめになる。
   役人や職員にマジャール語でまくし立てられて、憤慨し狼狽す
   る。西側資本を相手にすることが手っ取り早い経済的豊かさを
   もたらしてくれる世の中の環境を、静観というよりは無視して
   いる彼らの姿が、日常に埋もれている共産主義の残党の代表例
   に見える。

   日本では2000年に、英語を第二の“公用語”にしようとす
   る話しが議題にあがった。事実上ソ連に支配されていたハンガ
   リーですら、ロシア語が第二の公用語として採用されることは
   なかったが、日本の政治家達は国際舞台での語学力に今更なが
   ら自身喪失しているのだろうか。この愚案を盲信した政治家が
   いたこと自体、“公用語”の意味を完全に取り違えている。

   語学は専門職として使用されなければ、単なる道具に過ぎない。
   自分の言葉で如何に自己表現できるか、つまり母国語での知識、
   交渉力や話し方の基礎をなくして、外国語を使う時に、どの様
   にその人物の能力を発揮できるというのだろう。

   日本では外国語をそのまま外来語として取り入れる風潮がある
   が、工業製品やコンピューターの出現と急速な新用語の発生に
   より、近年では益々その傾向が強くなっている。ハンガリーで
   は、コンピューターが“計算する機械”szamitogep、マウスが
   “ネズミ”eger、音楽CDが“音の版”hanglemezなど、マジ
   ャール語に置きかえられることが多い。ハンガリー人の母国語
   を大切に想う気持ちが窺える。

   若者達が、外国語の駆使が豊かさへの近道だと語学学校に殺到
   しようと、一方、公官庁では世の中の流れを頑なに拒否する。
   前時代的な対応を受けて外国人が不快に感じようと、ハンガリ
   ー人のマジャール語に対する誇りは見習うべきところがあると
   痛切に感じる。

   相手の言葉をどんなに上手に話せても、こちらがマジャール語
   を話すと老若男女を問わずマジャール語で返答してくるハンガ
   リー人達。自分達の言葉が世界でも特殊で、外国人がその難解
   な言葉を習得しようとする努力に敬意を払うからなのだ。どん
   なに片言でたどたどしく話そうとも、耳を傾けて聴こうとする
   態度がある。公官庁でマジャール語を喋る外国人とそうでない
   外国人では、待時間や窓口の親切度が多いに違うこともある。

   残念ながら職業においては、外国語習得は単に便利な道具が増
   えたことを意味するのであって、高度な語学力が仕事の能力と
   必ずしも結びつくわけではない。それと同時に、付加価値のあ
   る能力が、高収入を望める外資などの就職へ直結しているわけ
   でもないのも事実だ。語学の能力が即仕事の能力だというハン
   ガリー人の勘違いがなくなり、本来仕事としての能力、つまり
   交渉力、営業力、経営戦略などの方が重要であるいう意識を持
   てば、目の前の豊かさを得る手段としての語学ブームに惑わさ
   れず、長期的な安定を見出すことができるのだろうが。

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    ★★★★★Szagamiのぶらぶらブダペスト散歩★★★★★

  ●英雄広場の後ろにある国立公園をぶらぶらお散歩。わんちゃん
   達にも少々きつい夏の日差しが急にやってきました。飼い主が
   池に投げる小木れやボールを追って、勇敢に水の中に飛び込む
   大型犬達ですが、中型犬になると池に飛び込むのを躊躇してい
   ます。水を怖がっていた黒ぶちの白い中型犬、飼い主に即され
   て飛び込んでみたものの、池の淵のコンクリートの段差が高く
   て陸に上がれなくなってしまい、悲痛な叫びをあげて飼い主に
   助けを求めていました。

  ●前号で家庭菜園を持つ友人にオクラの種をプレゼントした話を
   書きましたが、種を早速植えたとのこと。“種まきは5月20
   日に決定だと言ってたのでは?”と指摘すると、土壌が十分に
   暖かくなったので待ちきれずに植えてしまったとのこと。この
   ところ日差しが強いブダペスト、“雨が降らないかな。”と、
   雨乞いしている友人でした。

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   大事件:欧米諸国では凶悪犯罪の少ないハンガリーを震撼させ
   る事件が昨日起こりました。モールMorと言う地方都市で2人
   組の強盗がオーストリア系の銀行に入るや否や自動小銃で発砲、
   7人の方が亡くなり、2名が重体となる惨事がありました。奇
   しくも同日に発行された週刊誌にハンガリーの銃規制は厳しく、
   流用している銃も少ないと紹介されていたばかりなのですが。
   (今回犯罪に使われた自動小銃は合法では一般人が持ち得ない
   ものです。)

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