我が愛すべきハンガリーのジレンマ

第62号   2002年9月15日

         ジレンマ番外編バルカン半島

   ◆お伽の国モンテネグロ セルビアとの狭間に揺れて◆

   第二回目:大自然の宝庫を心のファインダーに捉えて

   ●天の王国オストログ修道院

   朝9時半にサーニャの運転する自動車で、毎週末には帰省する
   彼女の生まれ故郷ニクシチNicsicへ出発した。ニクシチは人口
   1万8000人のモンテネグロ第二の都市、ポドゴリッツァか
   ら北西50kmに位置する。

   郊外を出て間もなく、緑生い茂るなだらかな丘が、芝や潅木が
   点在する大地を囲み始める。田舎道は、のんびりと散歩する蛇
   のように丘の斜面を這う。大地の中央を流れる川の周辺には、
   隣接せずに適度な距離を保ちながら家々が建つ。白い石で丁寧
   に積み上げられた壁に、赤い屋根が帽子のようにそっとかぶせ
   られている。

   道路沿いに電灯がないので、電柱・電線が殆ど見られない。ガ
   ードレールもない。標識、信号、ごみ箱、行き交う人・車、看
   板、ガソリンスタンド、完璧なほどに何もない。人間が我侭勝
   手に創造する文明の力に、まだ邪魔されていないモンテネグロ
   の大自然。美しい光景にシャッターを切ろうとする時、人々は
   自分達が勝手に備え付けた便利な道具を如何にファインダーか
   ら取り除こうとするだろう。しかし、ニクシチへの旅路にそん
   な努力は要らない。

   緑に覆われた丘が徐々に傾斜を深め、草々が岩の皺に挟まれて、
   ごつごつとした石灰質の白い肌を露わにし始めた。険しくなっ
   てきた丘の斜面に点々と建つ家は、夏の羊やヤギの放牧時、移
   動に必要な拠点のためだという。

   丘が山と呼べるほど、頂が高くなってきた。盆地を挟んで平行
   に走る反対側の山の遥か上部に、岩山に食い込んだ建物を見つ
   けた。“オストログ修道院よ。”どんなに恋焦れていたことだ
   ろう。交通量の多い大通りに面しているのかと想像していたオ
   ストログ修道院は、今私が走っている場所を下界と呼ぶに等し
   いほど、高い位置に存在している。修道院という箱舟が岩山か
   らするりとはずれて、そのまま天に昇っていってしまいそうだ。

   自動車がすれ違うことすら危うく、相変わらずガードレールが
   ない細い道を、転落しないようゆっくりと蛇行して、限りなく
   天に近い修道院を目指した。この道に慣れない外国ナンバー車
   にあっという間に追いつき、そのふらふら運転に私達は後ろで
   怯えていた。

   Bjelopavlici平原の北西、ニクシチとDanilovgradという街の
   間にある、垂直に切り立つ岩壁にはめ込まれたように建つオス
   トログ修道院は、大司教であった聖バジルによって1667年
   に建設された。元々は苦行生活を営む隠者が建てた建物を、世
   俗に嫌気のさした聖バジルが禁欲生活に憧れ、それに見合う修
   道院を探していた時に見つけたものだ。この周辺の洞窟や教会
   など、禁欲生活に適する“物件”がいくつかあったのだが、オ
   ストログを探し当てた時に、自分の夢を託すことに決めた。廃
   屋同然だった建物を改築し、住人もいた近所の土地を購入し、
   修道院に仕立て上げた。彼が葬られてから死後7年後(167
   8年)にニクシチの近くにある聖ルカ修道院の修道院長の夢に
   “棺を開けてくれ”と聖バジルが現れ、それ以降聖バジルの聖
   体の参拝者は絶えない。トルコの侵略やローマ・カトリックの
   布教活動による正教との確執などで多くの苦しむ心を救った聖
   バジルの人生は、人々にとって“短い”地上の王国であった。
   彼の一生に比べれば死後300年以上も続く“長い”天の王国
   は、時代が変わった現在の民の心をも救っている。セルビア聖
   教の寺院の中でも、指折りの訪問者を数える修道院である。

   修道院の下には別の教会があり、ここでも多くの巡礼者が参拝
   している。10歳の時にオストログで洗礼を受けたサーニャは、
   ここに来るといつも霊的な物に憑かれる気分になることを、こ
   っそり私に告白した。現実社会で忙しく働く自分が、目に見え
   ないものを信じる事を恥じているようだ。

   駐車場で巡礼者達が夏の装いから長袖・長ズボンに着替えてい
   る。修道院内は神聖な場所のため、肘や膝を出してはいけない。
   巡礼ツアーでやってきた地元ナンバーの団体バスは、廃車同然
   のおんぼろだ。後日ベオグラードに向かう途中の田舎街のバス
   停で、オストログ巡礼ツアーの募集広告を見つけた。2泊3日
   (2泊とも車中泊)1000ディナール(約2000円)の巡
   礼ツアー、彼らにとっては決して安値ではない。熱心な正教信
   者にとってオストログは、イスラム信者にとってのメッカ巡礼
   のように、神聖であり重要だ。長期間滞在する信者のための宿
   泊所が、教会の背後にある。

   西暦395年、皇帝テオドシスがローマ帝国を東西に分割する
   ことにより、キリスト教も東方の“正教”と、西方の“カトリ
   ック”に分かれることとなる。1054年にラテン語を典礼と
   するローマ・カトリックとギリシア語を典礼とするギリシア正
   教会(東方正教会)の教義の違いにより完全に分離することに
   なった。正教会がその後スラブ語を取り入れることにより、キ
   リル文字を使用するセルビアやモンテネグロで正教が発展して
   いった。

   教会入口の柱や、ガラスが張られ大事に守られているイコンに、
   恭しく口付けをする巡礼者達。ガラスの表面は、指紋ならぬ唇
   紋で一杯だ。賽銭箱には、想いの込められた賽銭がひっきりな
   しに投げ込まれる。私もそれに続く。信者でない私が教会の賽
   銭箱に賽銭を投じるのは、教会が地元民や信者に大切に守られ
   ていることを感じる時だけだ。その神聖さや頑なに伝統を守る
   誇りは時として異教徒を受け入れない厳しさがあるので、部外
   者に門戸を開いてくれたことに対する感謝の気持ちも含まれる。

   岩山にめり込む上の修道院見学に、更にオストログのいろは坂
   を上がる。徒歩で上がりたかったが時間節約のため、またして
   も自動車という文明の力を借りることに。近道をするために藪
   の中を通り抜けたり、アスファルトの道を古い時代の苦行を真
   似るために裸足で登る人々の、背負われたそれぞれの人生を受
   け入れるために、修道院は上で待っている。

   聖バジルの聖体が安置される部屋の入口前で並ぶ巡礼者の信心
   深さが、修道院や教会の存在を、丁寧に磨かれた蝋燭立てやフ
   レスコ画と共に、長い歴史の中で消えてしまわないように支え
   ている。

   サーニャが、金の刺繍の施された赤いビロード布で覆われてい
   る聖体の横に立つ僧に、私が正教徒信者ではないが聖体に近付
   けるかどうか質問している。彼女の正教と私に対する誠実さ、
   オストログ修道院とその僧に対する礼儀に心底感心した。観光
   化してしまった西側諸国の教会では、到底考えられない。僧の
   口から出た言葉は予想外。“シントウ?”僧として神学全般を
   勉強しているだろうが、この修道院への尊敬の念が益々深まっ
   た。“ブッキョウです。”(外国では模範解答として、いつも
   こう返答することにしている。)微笑みを口にたたえて肯き、
   聖体へ手を差し伸べて導いてくれた。巡礼者は聖体にも口付け
   をしていく。

   ●傾きかけた第二の都市、ニクシチ

   今日はサーニャの実家でモンテネグロ郷土料理を昼食にご馳走
   になる予定だ。見学を終え、彼女の両親の家に向かって出発し
   た途端に、携帯電話にお母さんから催促の電話が入った。客人
   を招待すると、その歓迎の仕方が重たくて気が滅入ると怒る彼
   女。私のモンテネグロ滞在を完璧に演出しようと駆けずり回る
   彼女は、母親の血がしっかりと継がれていることに気が付かな
   い。

   モンテネグロ第二の経済と工業の中心都市、ニクシチが見えて
   きた。街中をドライブしながら、実家の団地に到着。

   両親と、今年の10月からポドゴリッツァの大学に通う予定の
   弟が、葡萄で作られた蒸留酒ローザと共に待っていた。早速食
   欲をそそる香りが台所から。人参スープ、ほうれん草のロール
   ケーキ風前菜、チーズと生クリームのだんご、鶏肉とジャガイ
   モのニンニク風味グリル、豚肉の唐揚げ、グリーンピースシチ
   ュー、セルビア風トマトサラダ、鱒のフライ、ココナッツケー
   キ、月型クッキー、チョコボール。味付けはこってりと濃いと
   いうサーニャの前振りとは違い、ラードを使い油の層が二重に
   浮くハンガリーの名物料理グヤーシュ・スープなどのハンガ
   リー料理と比べると、ずっと薄口のモンテネグロお袋料理。以
   前は工場責任者である父が、連絡もなく頻繁に部下を家に連れ
   て来たので、本日の料理の手間は“何でもない”らしい。“母
   は4人の子供を抱え、経済的に苦しい時にケーキを販売した。
   美味しいという口コミで個人客に対してね。昼に仕事と家事、
   夜には3-4個のケーキを焼いていた。”

   父は典型的なモンテネグロ人で家事は一切手伝わないという。
   弟は父を見て育ったので、コップのある場所すら知らない。ま
   だ家父長性が強く残るモンテネグロ、サーニャ家の財産は3人
   の姉を飛びこえ弟に継がれる。男性が女性のためにドアを開け
   ない、公共の場で席を譲らない、女性が大きな荷物を持ってい
   ても手伝わないという場面を、今回の旅で何度目撃した事か。
   日本との比較はしないが、地続きで隣の国のハンガリーではあ
   りえないことだ。女性蔑視や時代遅れとは言わないが、ヨーロ
   ッパ内でも違う男女間の力関係の存在を強く感じた。

   腹ごなしに登ったニクシチ全貌を見渡せる裏山で、モンテネグ
   ロでも異常気象で寒い今年の夏の冷たい風に当たりながら、サ
   ーニャは語る。“私の最初の仕事はパン工場。いくつもあった
   ニクシチの工場は閉鎖するばかり。ここに仕事はない。モンテ
   ネグロで一番おいしかったニクシチ・ビールの工場も閉鎖。ポ
   ドゴリッツァとニクシチを結ぶ電車も運休してしまった。アド
   リア海でのマリンスポーツ、峡谷に囲まれてのラフティングや
   スキーも楽しめ、こんなに観光資源に富むモンテネグロに観光
   客が来ないことを、本当に残念に思う。”

   立地が悪いためにアクセスが容易ではなく、険しい岩山と隣国
   の民族紛争に遮られているからこそ、人類が生み出すごみに未
   だ汚されていない大自然が残っている。観光業が成功すれば、
   観光客が真に欲する“未知の宝”が手から滑り落ちて行くだろ
   う。

   ポドゴリッツァへの帰途、沈みつつある太陽が白い岩肌をゆっ
   くりと紫色に塗り替える。蛇行する道に委ねられたドライブは、
   まるで大自然の揺りかごに身を任せているようで、一日の旅の
   疲れとともに私の平衡感覚を徐々に狂わせていった。帰途に再
   度現れた、電灯のない大きな暗闇の、対丘の遥か上部に望むラ
   イトアップの中で浮かぶ天の王国オストログも、岩壁の中でゆ
   らゆらと揺れていた。

   ●岩壁に守られて時間がゆっくり流れるツェティーニェ

   翌日マリナの故郷である古い歴史的旧首都、ツェティーニェに
   向かって出発した。

   ツェティーニェ平原に位置するツェティーニェの街は、100
   0m級の石灰石の山々に囲まれるわずか4平方kmのモンテネ
   グロ共和国の旧都。標高は670mで、アドレア海からは12
   kmに位置している。かつてはゼータ王国という名で呼ばれ、
   支配者イワン・ツルノイェヴィッチIvan Crnojevicがトルコ支
   配から逃れ、ツェティーニェ平原に王座をおいたのが1482
   年。モンテネグロ共和国にとって、精神的な文化と教育の拠り
   所であり、19世紀から20世紀初頭にかけて、イタリアやフ
   ランス、イギリスなどの公館、小学校や女学校、国立高等学校
   などが建てられた。第二次世界大戦後は、博物館と観光場所の
   中心地となり、1993年にユーゴスラビアが解体してからは、
   モンテネグロ共和国の首都的役割は完全にポドゴリッツァに移
   ってしまった。

   ツェティーニェに向かう道はニクシチと同じく看板も電線も
   “何もない”が、所々で石灰岩のガードレールに挟まれた。助
   手席から手を伸ばせば触れることのできそうなほど迫り来る
   岩々が、私を歓迎してくれているようだ。しかし、昨日の転落
   に対する心配に引き続き、衝突と落石の不安。サーニャの荒っ
   ぽい運転に、息を呑む。夏のバカンス・シーズンには崖から数
   十台の車が転落するそうだが、今年からの警察の大々交通キャ
   ンペーンにより、事故が激減したとのこと。

   内陸に人知れず佇むツェティーニェが見えてきた。現在イタリ
   アで働き、調度夏の休暇でツェティーニェに帰省していたマリ
   ナと再会。

   アドレア海を一望できる国立公園内の山へ自動車で向かった。
   山上には林間学校用の宿泊施設が揃い、林の木陰にはテーブル
   と椅子が用意され、食事処では豚の丸焼きが炭火でローストさ
   れている。山上は更に高い岩山に囲まれ、アドレア海を眺望す
   るには一丘越えなければならない。笠の立派な様々な種類のキ
   ノコや、長ズボンの下の素肌を鋭く突きさすアザミが満載の藪
   をぬけ、30分ほどの散歩を楽しむ。途中出会った牛追い爺さ
   んに写真の被写体になってもらい、コンピュータを通して貴方
   が日本に紹介されますとマリナが説明した。人口20人の小さ
   な村に日本から来訪者が来たことを驚き喜ぶ爺さん。日の出と
   共に放牧や農業を開始、昼食後に昼寝をして夕方に仕事を再会、
   日没で寝床に入る、そんな日時計に基づく爺さんの人生が、突
   如、時差も飛び越え分刻みで動くインターネットで紹介される
   ことにはお構いなしのようだが。

   とうとう辿り着いた岸壁の頂上。遥か眼下にはアドレア海の内
   海が広がる。今年の3月に遠足に来た時、今私達が歩いてきた
   内陸に面する斜面は雪に覆われ、海に開く斜面は雑草が芽吹き
   始めていて、そのコントラストは圧巻だった、とマリナ。

   街に戻り、以前はイタリア大使館、現在はマリナの元職場だっ
   た国立図書館や、旧オーストリア大使館などを横切り、ツェテ
   ィーニェの修道院を訪れる。1482年にトルコ支配を逃れた
   イワン・ツルノイェヴィッチがわずか2年後に建てた修道院。
   修道女であろう古ぼけた婆さんから、絵葉書を購入する。修復
   が施された修道院は新しく見えるが、日々磨かれ大切に扱われ
   ている宗教用道具が、古い歴史を滲み出させている。若者が新
   しいイコンを奉納する儀式の横で、僧が蝋燭をつけながらお経
   を唱える。

   今日はマリナが昼食にパスタをご馳走してくれるというが、一
   向に用意をする気配がない。“共産時代は朝7時から3時が勤
   務時間。帰宅してから昼食。職場で昼食を取る習慣が私達には
   ないの。”私の腹時計は我慢の限界をもうすぐ越えそうだ。
   “勤務時間が9時から5時になったのは、外国企業に標準をあ
   わせるため?”“そうでしょうね。私達の国は経済的に大きな
   問題を抱えている。ちょうど4−5年前のハンガリーの状況と
   同じではないかしら。ハンガリーが今直面している問題は、数
   年後の私達の問題よ。”

   やっと訪問したマリアの家で、前菜に山羊と牛から作られたチ
   ーズを頬張り、トマト・ペンネを楽しんだ。グリーントマトの
   にんにく漬けは彼女の母親の手作り。とろける甘さのオリーブ
   油はモンテネグロ名物。市販のオリーブ油は購入したことがな
   いというマリナとサーニャ。

   夕方にマリナ家をお暇し、“観光地化し過ぎて沿岸部では最悪”
   とサーニャが言ブドゥヴァBudvaまで、彼女が自動車で送って
   くれた。今日はブドゥヴァから38kmにある中世都市コトル
   Kotorで宿泊予定。途中、山火事のために3日間通行止めにな
   ったという山道を抜け、迷い牛が道を横切るのにはしゃいだ。
   日本には牛がいないのかと笑われたが、マリナもサーニャも北
   海道の牧場で群れを成す牛を見れば、喜ぶに違いない。風景と
   は全体で捉えるもので、一つ一つを切り離せば、また違う景色
   が構成される。切り立つ岸壁からアドリア海を見下ろす情景の
   中で、行き交う自動車に脅える牛は、たった今この瞬間にしか
   存在しない。

   海水浴場として地元民で賑わうブドゥヴァの中央バス停に到着。
   マリナとは将来の再会を約束し、ここで別れた。

   1時間でコトルの中央バス停に到着。時計は夜の8時半を指し
   ている。ホテルを旧市街に予約したが、自分がどこにいるのか
   見当がつかない。明日宿泊予定のクロアチア・ドブロブニクへ
   のバス出発時間を係員に訊くが、あまりの不親切さにサーニャ
   からの保護がとれてモンテネグロ人の負の洗礼をやっと受けた
   ような気がした。ポドゴリッツァ行きの列車内で耳にした、
   “モンテネグロ人は、2種類しかいない。心底人が良いか、性
   根の悪い人。悪い人にだけ気を付ければいい”という言葉を思
   い出した。

   車と人の流れを頼りに大通りに歩を進めると、すぐにコトル港
   が見えてきた。港に停泊する数隻の漁船や数少ないレストラン
   を灯す明りは、暗闇の壁から旧市街入口を探し出す助けにはな
   らない。しかしこの真っ暗な壁が、本当の中世都市コトルを取
   り囲む城壁と、街全体を包み込む自然の岩壁であるとわかった
   のは、次の日、日が昇ってからであった。

   それでもしばらく道なりに歩き、地元の若者で賑わう城壁の入
   口らしきところ発見、警官にホテル場所を確認して、無事にチ
   ェック・インを済ませた。

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  ●次回は、かわいらしいコトル、ドブロブニク・クロアチア戦争
   後の完全修復、アドレア海内海の宝石ぺラストへの旅路をご案
   内します。

   また通常のハンガリーのジレンマも発行予定です。

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