我が愛すべきハンガリーのジレンマ

第64号   2002年9月27日

         ジレンマ番外編バルカン半島

   まずは位置関係を下記のアドレスでご確認いただけますとより
   わかり易いかと思いますので、ご参照ください。

   ●ユーゴの地図

   ●モンテネグロの地図

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   ◆お伽の国モンテネグロ セルビアとの狭間に揺れて◆

   第三回目:アドリア海・城壁・都市国家

   ●入江の奥の繁栄と凋落

   中世のたたずまいが残る城壁都市コトルKotorは、アドレア海
   内海コトル湾の最も奥に位置している。入江が内陸を深くえぐ
   り、歴史の創造物と大自然が一体となった沿岸を、穏やかな波
   が撫でるようにさらう。

   ユネスコ世界遺産に指定されたコトルは、1979年4月15
   日アドレア海で起こった地震で大被害を被った。長い歴史にお
   いて経済的にも文化的にも繁栄したが、現在では復旧や管理に
   多大な努力と資金を要する。国際組織による継続的な援助なし
   には、この美しい街を保つことは困難になってしまった。

   月明かりでは何の道標も照らしだせなかった昨晩の暗闇の正体
   が、早朝の澄んだ空気の中の散歩で、街を囲む城壁と、背後に
   迫る石灰岩の崖であることを発見した。昨晩やっと見つけた城
   門から入った旧市街は、整然と並ぶカフェやレストランで広場
   が華やかに彩られ、サーカスのテント小屋に足を踏み入れたよ
   うだった。

   コトル湾に繋がるリサン湾内周辺には、イリュリア人が住んで
   いた。周辺山岳部に居を置くスラブ人とは民族的に区別される。
   沿岸部に散らばるザダールやスプリットの街を含むアドリア海
   東側の北半分は、ダルマチア地方と呼ばれていた。紀元3世紀
   にローマ人により征服されて荒廃したが、ローマ帝国が崩壊す
   ると間もなくコトル湾はローマ人の避難場所となった。その後
   はビザンチン帝国の支配が続き、地理的条件を活かして地中海
   海洋貿易で経済力を蓄えていく。15世紀初頭ベネチア共和国
   の保護下に入り、経済的・政治的に最も繁栄する時代を迎える。
   17−18世紀以降に経済が疲弊し始め、ナポレオン戦争でベ
   ネチアが崩壊すると、オーストリア、ロシア、フランスの支配
   に取って代わるが、第一次大戦までコトルは“ハプスブルグ家
   の流刑地”という悲しい名誉を得ることになる。

   14世紀、バルカンの領土に食指を伸ばすトルコの攻撃をかわ
   すために、ベネチア共和国がダルマチア地方を含むアドレア海
   の街々を難攻不落の城塞都市にすることは、非常に重要な戦略
   となった。沿岸部の街々に政治的特権を与え、次々と強固な城
   壁や要塞を補強していく。

   入江に侵入してくるトルコ軍や、頻繁に出没する海賊達を眼下
   に捉えるために、背後の崖の斜面に構える拡張・増強された要
   塞。コトル軍の見張り番が居眠りをし、トルコ海軍の侵入を見
   過ごしたのかなどと当時の様子に想い巡らせながら、旧市街の
   裏門から要塞へ続く石段を登り始めた。早朝にも関わらず、た
   め息をつきながら散乱している屑ゴミを拾うチケット売りとす
   れ違う。要塞見学に1ユーロ。過去に繁栄した海洋貿易は衰退、
   現在は観光業で成り立つコトルだが、軍事基地としてだけでな
   く、西洋とビザンチンの芸術様式がここで出会い、目を見張る
   ような外観を織り成していたことは容易に想像がつく。

   午前中に旧市街を散策、昼食を済ませ、一日に一本しかないク
   ロアチア共和国・ドブロブニク行きのバスに乗るために、バス
   ターミナルへ急いだ。ブドゥヴァから来たバスの中には、ベオ
   グラードからポドゴリッツァへの列車の中で乗り合わせたチリ
   人の彼らがいた。イタリア人旅行者と盛り上がっている。相変
   わらず気ままに旅を続けているようだ。クロアチアの行き先も
   まだ決まっていないと言う。

   モンテネグロのバスは、クロアチア共和国との国境まで乗客を
   乗せていく。クロアチア側の交通手段の状況がわからない。結
   局警察でユーゴ滞在証明書を獲得しなかったので、国境でどう
   なるか検討がつかない。チリからの彼らも警察には行っていな
   いという。

   エアコンがなく、窓も開かず、道中タイヤがパンクしても走り
   続けるおんぼろバスが、コトル湾とリサン湾の沿岸をなぞるよ
   うに走る。切り立つ山々の麓や中腹に点在する古い教会や修道
   院。3世紀に建てられたローマ人の宮殿の床に、当時の古いモ
   ザイクが発見されているリサンの街は、海水浴場であり、中世
   の歴史を楽しむ都市ではない。

   1時間40分で国境に到着。国外逃亡者のごとく大きな荷物を
   抱える現地人も含め、山道の真中で皆バスから降ろされる。こ
   ういう時になると日本人の特性がでるのか、頭を働かさずに他
   の乗客の歩く方向に従った。

   モンテネグロからクロアチアの陸路国境状況は既に在ブダペス
   トユーゴ大使館で確認していたが、ユーゴ政府がこの国境を承
   認していないため、ここでの出入国は密出入国になると日本外
   務省のWebに掲載されている。1993年まで続いたクロアチ
   ア独立戦争で両国の関係は断絶、長く閉ざされていた。その後
   モンテネグロ警察管理によって再び開かれた国境だが、199
   9年NATO空爆時にセルビア軍によって再度閉鎖される。開い た
   り閉鎖されたりと、常に不安定な状態の国境。そのため検問所
   はプレハブ作りだ。係員はユーゴ入国スタンプが押してある私
   のパスポートのページをめくり、一瞥して閉じた。乗客の一行
   は流れるままに、クロアチア側検問所へと向かう。

   Tax Freeの看板が掲げられている空っぽのコンテナを改造した
   店には、販売員どころか机もなく、閉店休業中だ。免税手続き
   の箱の作り方を西側諸国から習得した彼らに、仕事の継続の仕
   方まで教育しなければならないのか。

   クロアチア側の国境検問所では、入国係官がパスポートに触り
   もせず“アチョー”と空手のまねをしておしまい。検問所の建
   物の横で、タクシーの運転手が外国人観光客をてぐすね引いて
   待っている。ドブロブニクまで42kmの距離が一人10ユー
   ロ(約1200円)。妥当な値段ではあるが適度に無視し、山
   道を長いものに巻かれるままに歩を進めた。5分ほどで茶屋に
   到着、国境まで一緒に来た他の乗客達が茶屋に座っている。

   待つこと30分、クーラーの効いた、シートが靴の跡で汚れて
   いない最新大型観光バスがやってきた。運転手のシャツにはア
   イロンがかかっている。

   緑の木々に覆われた山々に、針のように鋭い糸杉の群集が天に
   伸びる。数日間聳え立つ自然の城壁に囲まれていたので、アド
   リア海の外海に出た瞬間の開放感は何にも例え難かった。

   ●今も昔も高嶺の花

   ドブロブニクのバスターミナルに到着。既に旧市街のプライベ
   ート・ルームに予約をしていたので、バスの降車口に群がる宿
   屋の客引きをかわし、旧市街行きのバスに乗った。たった10
   分程の距離に10クーナ(約160円)もする運賃は、街全体
   が観光業を生業とすることを証明している。人も車も電線も看
   板も殆ど何もなかったお伽の国から、両替所、電話ボックス、
   簡易トイレ、アメリカ人団体旅行客、客引きと、何でも揃う現
   実社会へと一挙に引き戻された。

   コトル同様イリュリア人が居住していた古い歴史のあるドブロ
   ブニク。近隣の荒々しかった民とは違い、9世紀にビザンチン
   皇帝から税金や特権と引き換えに安全保障を得るといった、街
   の存続・繁栄のために強力な敵または味方にひざまずくが完全
   に服従はしないというドブロブニクの和平を好む基本的政策が、
   この後千年続くことになる。ビザンチン帝国崩壊後ベネチア共
   和国の保護下に入るが、1358年に数世紀前からダルマチア
   地方の征服を執拗に狙っていたハンガリー王ライヨシュ一世が
   ドブロブニクを征服。ハンガリーに年貢を納め、一年に3回大
   聖堂でライヨシュ王を賛美し、王が街に参上する時にはハンガ
   リー国旗と紋章を掲げることを約束する。ハンガリー王国はベ
   ネチアとスラブと戦争中も、ドブロブニクがこれらの国々と貿
   易を継続することを許可した。トルコとハンガリーが衝突し、
   1526年にハンガリーがモハーチでトルコ軍に敗れると、ド
   ブロブニクはハンガリーから寝返ってトルコのスルタンにすり
   寄る。15−16世紀がドブロブニクの黄金時代で、貴族達が
   海洋貿易によって手にした多大な富を建築や美術に費やすが、
   17−18世紀になり地中海貿易全体に陰りが見えると同時に、
   彼らの経済力も衰退し始めた。

   1991年に訪れた際、再訪する事を心に決めた程の美しい街。
   その2ヶ月後のクロアチア独立戦争の際、ユーゴスラビア軍の
   空爆で街の一部が崩壊、再訪が延期になった。1537年の文
   字の入るルネッサンス様式のピレ門が、当時と同じように再び
   私を迎え入れてくれた。

   城壁内でプライベート・ルームを営むマリア婆さんが、到着
   早々手作りアイスクリームをご馳走してくれた。ドブロブニク
   の全景が望めるバスルームは、まるで露天風呂。

   早速散策に。レストランが建ち並ぶ通りの一角のピザ屋で、観
   光客のハンガリー人がいかに安くピザを注文できるか頭を抱え
   てメニューを睨んでいる。ドブロブニクはクロアチアで最南端
   に位置し、地理的にハンガリーからは最も遠い。クロアチアで
   最も物価が高い観光地のため、夏のバカンスをクロアチアで過
   ごしたと豪語するハンガリー人の口からドブロブニクの名がで
   てくることは稀である。

   翌日の早朝の散歩で、新鮮なイカを朝市で発見。プライベー
   ト・ルームの台所で刺し身にしようか迷い、一周して戻ってき
   たら売切れていた。隣でふてぶてしく横たわっている新鮮な寅
   うつぼは、まだ買手がつかない。

   13世紀初頭、イタリアはアッシジの聖フランチェスコがキリ
   スト教伝導のためにドブロブニクを訪れた直後に建設されたと
   いう伝説が残るフランチェスコ教会。伝導初期は城壁内に居住
   を置くことを禁じられたフランチェスコ派、14世紀にやっと
   城壁内居住が許可された。

   修道院内にある博物館に、ヨーロッパで最も古いといわれる由
   緒正しき薬局屋の展示がある。当初は僧侶達の贅沢品であった
   薬、後に一般市民に健康施設として開放されるようになった。
   すりこぎとすり鉢が用いられ、かゆみ止めから媚薬まで調合。
   薬とはいえ化学的証明のない間違いだらけの混合物、それでも
   当時の僧侶が残した薬草の調合方法が今でも残っている。現在
   修道院入口で経営されている薬局屋で、1317年のマークの
   入った当時の調合で作られたクリームとローションが販売され
   ている。

   午後、全長2kmの城壁を1時間半かけて歩く。陸から攻めて
   くるスラブ人や海賊から守るために8世紀に建てられた城壁は、
   街が拡張するにつれて継続的に補強されていく。現在の姿は、
   15世紀に描かれた設計図が元になっている。

   翌日早朝の散歩後、バスターミナルに戻り、西側スタンダード
   の大型バスに乗って、再びクロアチア・モンテネグロの国境へ
   と戻った。

   クロアチアから入国するアメリカ人観光客が、国境で大きな笑
   顔と供に記念撮影をしている。国家権力が一般市民だけでなく
   観光客にも幅を利かせていた国では、国境での写真撮影は極力
   控えるにこしたことはない。飛行場や駅でカメラを構えただけ
   で警察や軍が飛んで来て、フィルムをカメラから抜き取ろうと
   していたのはそう遠い昔ではない旧共産圏の国々。体制や制度
   が変わっても、何十年も根付いた慣習は彼らの精神からは簡単
   に抜けない。EU加盟予定のハンガリーですら、警察官に染み
   付いている権力意識に、一般市民は未だにへつらっている。

   モンテネグロ入国管理の建物の横で、おんぼろバスが待ってい
   た。再びがたがた道に揺られながら、コトルに戻る。

   ●リサン湾に浮かぶ岩の小舟

   入り組んだ湾に外海から入ると、隣り合うリサン湾とコトル湾
   の繋ぎの沿岸部にペラストPerastの街が見える。コトルから
   14kmに位置するペラストは873mのイリヤIlija山の麓
   にある。

   漁業や造船、海洋貿易で身を立てる男達の停泊地でもあったペ
   ラストが有名なのは、小船のように湾に浮かぶ二つの小さな島
   と、その上に建つ二つの教会である。聖ジョージ教会は自然の
   島に建てられており、一方の聖母マリア教会が建つ島は、ペラ
   ストの男達によって造られた人工島である。ぺラスト湾内の石
   や岩を一つずつ積み上げては波に飲まれ、多大な苦労と時間を
   かけて出来あがった小さな島の誕生の歴史を忘れないため、こ
   の聖母マリア教会が完成した1452年を祝う儀式がある。初
   夏になると、石や岩が積まれたペラスト全ての船がロープでつ
   ながれ、聖母マリア島を囲む。民謡が歌われ、船に積まれた石
   と岩が海に一つずつ落とされる。500年も代々に渡り引き継
   がれている祭りだ。

   今日までペラストの守護神的存在であり続ける聖母マリア教会
   だが、リサン湾に点在する多くの教会は、船乗り達の無事な帰
   還を祈るため聖母マリアに捧げられている。教会の内装品の多
   くが海と彼らの生活や伝説に通じている。

   サーニャやインフォメーションセンターの言う“そこら辺にい
   る船乗りに頼めば誰でも島までボートを出してくれる”という
   言葉を信じ、船が停泊していそうな場所を歩く。宿屋を探して
   いるのかと尋ねてきたおばさんに島を指差すと、知り合いに声
   をかけてくれた。若者が島まで片道1ユーロでボートを出して
   くれた。

   10分弱で“聖母マリア教会”島に到着し、教会内をガイドと
   一緒に団体で見学。果敢に戦う海兵隊としてベネチアに評判の
   高かったペラストの戦闘模様を描いた17世紀の銅板の力強い
   レリーフが、教会の壁上部を埋め尽くしている。

   ボートでペラストの街に戻り、1691年に55mの鐘つき塔
   の建築が始まった聖ニコラ教会の中を覗くと、外のベンチで日
   光浴をしていた管理人のおばさんが入ってきた。付属の博物館
   見学が0・5ユーロ。教会の扉が閉められ、貸し切り状態に。
   英語ガイドは昼食中で、おばさんはロシア語担当であると謝罪
   された。道中で覚えたセルビア語の数字とおばさんの時々思い
   出したように出てくる英単語で、博物館内の展示物の概要を理
   解する。イタリアから設計士が来たが、ベネチア共和国の崩壊
   と共に経済的に苦しくなったペラストに聖ニコラ教会を完成さ
   せる資金を出資できる後継者はおらず、未完成とのこと。教会
   完成模型が祭壇の前に空しく展示されている。大司教が着てい
   た金の刺繍が施されたマントの数々は、おばさんが“ペラスト
   が豊かだった時”と説明を繰り返さなくても、当時の栄華を想
   像させる。

   海岸沿いで1ユーロのビールを飲みながら、コトルへ帰るバス
   を待つ。全てが1ユーロだ。バスが来たので急いで乗りこみ、
   コトルへ到着。夕方のポドゴリッツァ行きのバスまでにハンガ
   リーに戻ってからしばらくは口にできない、今回の旅で最後に
   なるであろう海の幸を食べに遅い昼食を取る。駅で荷物預所を
   使用すると、また1ユーロ。

   昼食を済ませ、ポドゴリッツァへ。夜遅くバスターミナルに到
   着、サーニャに迎えに来てもらって、アパートに到着し、今日
   の長い一日も無事に終えた。

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  ●次回“ジレンマ番外編バルカン半島”は、アルバニアとセルビ
   アへの旅路をご案内します。

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