ショプロン Sopron
     2005.Oct.

数少ないハンガリー古都を訪ねて

 ハンガリー国内のほかの街とは違って、トルコ軍の戦火による被害がほとんどなかったため、古都の香りが漂うショプロン。オーストリアとの国境と接しており、1956年ハンガリー動乱時、なだれ込んだハンガリー人は、ここを通り、見知らぬ西側諸国に自分の未来を託したのでした。日頃の忙しさを忘れて、ゆっくり散歩するには、ぴったりの城郭都市です。

交通:
ブダペスト東駅より電車で227km。車で210km。
電車、バス共に毎日運行。電車の所要時間直行便で約2時間25-50分(午前中2本)もしくはジョール Győrで乗り換え。
バスはネープリゲトNépliget M3の発着所から急行で3時間半程。
またウィーン南駅からは電車で約1時間10分。

城壁内と外では時間の流れが違う?

ショプロン全景
 
 
電車で到着したら、駅前のMatyas Kiralyu.を直進、15分位で左手前方に教会や、火の見の塔 Tűz toronyのある旧市街中心地が見えてきます。バスで到着した方は、目の前の大通りLackner Kristóf u.を向かって右方向に進み、突き当たりの環状通りを左に曲がって行くと、火の見の塔の前まで来ます。城壁や家が入り組み、果たして旧市街に入れるのかと、最初は壁の外で立ち尽くしてしまいますが、とにかく塔を目指せば間違いなし。搭の小さなトンネルを抜けると、中央広場Fő térに出ます。車がばんばん走り、人通りの多い城壁の外と違い、いったん旧市街に入ると、まるで時代がさかのぼったのかと思うほど時間がゆっくり流れています。

あなたも火の見の塔の番人になれる?

火の見の塔 素晴らしいショプロンの全景を、火の見の塔から見渡してみましょう。124段の階段がつらい方は、途中で展示されている塔の歴史を楽しみながら、休みながら。展望台に到着、街が緩やかな丘陵地帯に囲まれているのが見えます。ショプロンは、アルプス山系の南西の麓に位置し、丘のテレビ塔近くの展望台Károly-kilátóで標高394m、一番高い所だと558mあり、春先でもまだ最後の雪が残っています。

 1409年に、基礎のしっかりしたローマ遺跡の上に建てられた塔は、1676年の大火事にあい、その後に再建されたものが現在の姿。中世に重要な貿易の中継点であったショプロンにとって、この塔が中心なのは当然のこと、火事の時はもちろん、貴族の訪問時やワインの積み荷の到着も、ここから合図が出されていました。塔の番人は交代制で、肉屋やパン屋といった本職を別に持っていたのです。搭の上で楽器を演奏したり、歌を歌うこともあったそうで、その音色は街中に響き渡っていたことでしょう。

ショプロンの花さかじいさん

 中央広場に面しているヤギ教会Kecske templom、入り口にはヤギのマークが。ヤギに導かれて、金を発見したヤギ飼い、あまりの敬虔深さにポッポに入れず、そっくりそのまま金を寄付して、1280年に教会の建設が始まったと言う嘘のような本当の話。教会のヤギのマークは、ヤギ飼いの家紋だったと言うけれど、中世の時代に、単なるヤギ飼いが家紋なんか持っていたのか?と言うのも嘘のような本当の話。1590年の地震や、1676年の大火事にもびくともしなかった丈夫な造りです。見どころは、正面右側面から入るチャプター・ホールKaptalan tér。天井を中心に描かれたフレスコ画は、見事です。聖書の7つの大罪の意味がしたためられている怪物や動物の絵は、テレビなどがなかった時代の人々のビジュアルに訴えるのに充分不気味に映ったはず。

オーストリアにならなかった街

 オーストリア・ハンガリー2重帝国時代、国境はオーストリア内のライタ川沿い周辺でした。オーストリア人、ハンガリー人が入り組んで暮らしていた所でもあります。第一次世界大戦後、帝国崩壊により国境を新たに定めることに。サン・ジェルマン条約で6割以上のゲルマン系の住民を有するショプロンは、オーストリアに編入することになっていたのにもかかわらず、異議を唱えたハンガリー側が住民投票に持ち込み、投票日に、多くのハンガリー人が周辺からやって来て、7割以上の票を獲得、ついにハンガリーに帰属することに。忠誠の門

 その記念として、火の見の塔の入り口に忠誠の門が造られ、ハンガリーへの忠誠が示されています。もちろん、今でも多くのオーストリア人が、観光や買い物に訪れます。その観光客を狙ってか、個性的な家並は小さな博物館(鉱物博物館や薬局博物館など)として公開されています。街並みを楽しみながら、気に入った博物館を覗いてみてください。火の見の塔の右隣の建物の裏から城壁の外へ出る途中に、この街がローマ遺跡の上に建てられた証拠を、しっかりと見ることができます。さてさて散歩はおしまい、多くのぶどう畑を有するここの名産赤ワイン、ケークフランコシュKékfrankosでも飲みに行きましょう。

フェルトゥード Fertőd

ハンガリーのはじっこでハイドン・コンサートを満喫しよう

 ショプロンから27km、オーストリア国境をまたにしているフェルトゥ湖(ドイツ語でノイジードラー湖)南部に位置し、多くの水鳥が集まるため、国立公園に指定されています。民家の屋根の上に、コウノトリが巣をつくる光景もここの1つの名物。ハンガリー最古の貴族で、現在も脈々とその血を受け継いでいるエステルハーズィ家の最盛期につくらたエステルハーズィ宮殿の大広間では、夏にハイドン・コンサートが開かれます。ハイドンは、ここで楽団長として指揮をしていたのです。

交通:
ショプロンからバスで1時間弱。1時間に1本以上発着している。
エステルハーズィ宮殿の停留所はバスによって異なるので運転手か周りの乗客に要確認(宮殿より数百m手前でオーストリア国境に行くバスもあるので注意)。

ハンガリーには珍しい木々の生茂る街

 ショプロンからフェルトゥードの街の途中は、湿地帯が広がっています。(乾燥しているブダペストに住んでいると、日本人にとってはこの湿気が何となく心地よい)ちょっと寒い日に、湯煙の見えるバルフBalfや、運がよければコウノトリが見れるフェルトゥーホモック Fertőhomok、ヘジクーHegykőの街を過ぎ、フェルトゥードの街に入ると、右手に当時宮殿のゲストの宿舎としてつくられた黄色い建物、ハイドン・レストランが見えます。ここを過ぎたら間もなく宮殿。宮殿が建つ前は陰鬱な湿地帯で、マラリアが幾度も蔓延しましたが、エステルハーズィ家の莫大な富で排水工事を行い、マラリアの心配がなくなったどころか、素晴らしい保養地にまで発展しました。

かの女帝も感嘆、ハンガリーのベルサイユ  

エステルハーズィ宮殿正面
 

 1720年にカモ狩用ロッジとして、最初の建物が建てられたのが始まりで、その後エステルハーズィ・ミクローシュEszterházy Miklósの時代に改築を重ね、見事な宮殿に仕立てました。目標はハンガリーのベルサイユ、250ヘクタールという広大な土地に、400人収容できるオペラハウス、人形劇場などの娯楽施設を建て、ウィーンからの貴族を招いて盛大なパーティーを繰り返したのです。1773年には、ハプスブルク家女帝マリア・テレジアを招くことに。敷地内の中国風アトラクション・ホールに感嘆したマリア・テレジアが建築費を尋ねたところ、ミクローシュは、“ほんの些細な額です”と当時の女帝に言って退けた!その後、“素晴らしい演奏を楽しみたかったら、エステルハーザ(フェルトゥードのこと)へ行くわ” 女帝にと言わしめたのです。

馬小屋にはもったいない!

 しかしミクローシュの死後、1790年この宮殿は時代から忘れ去られ、以後馬小屋として使われ、第二次世界大戦時には野戦病院として使われたのです。そんな落ちぶれた宮殿を、流れ星のように一時だけ輝いた時代に復活させようと、1957年から修復が始まりました。

 内部見学は、ガイドさんと一緒に見学ツアーで。宮殿内正面のチケット売り場で入場券を買い、日本語の説明書を貸りましょう。公開されている部屋は22室、サラ・テレナSala Terrenaガーラ・ホールGala Hallと呼ばれる2部屋は必見。毎年開催されるハイドン祭で、貴族になった気分で当時の雰囲気を味わってみては。

 館内見学が終わったら、庭園を散歩してみてください。宮殿内に園芸学校があるため、庭園の手入れは完璧です。ヨーロッパでも、1945年頃まで小さな王領地程の土地を持っていた貴族は、エステルハーズィ家ぐらいでした。共産時代に追われた子孫達は、世界中に散らばったものの未だ大金持ちだそうですが、支配したのが共産主義でなかったら、彼らの土地はどうなっていたのでしょう?また公爵の生活とはいきませんが、ここで働いていた執事か護衛の気分になって、エステルハーズィ宮殿内の1つ星ホテルに泊まってみては?
 
注:管理者の撮影した写真がないためAlta Vistaのフリー写真集より拝借しました。


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