ハンガリー史
    2005.Nov.

誰がそれまで住んでいた?

 これからハンガリーを旅行する、ハンガリーで生活したり仕事をする予定のある方にも、ハンガリーをよく理解するには簡単な歴史的背景が必要。残念ながらハンガリー自身の総体的な歴史資料を見つけることは難しく、やっと見つけた本のページを開いてみてもあまりにも研究色が強く、読者を引き込むような興奮は期待薄。トルコやオーストリアに支配されていたので、オスマン帝国やハプスブルク帝国関係の本を漁ってみると、わき役として度々登場します。

 ここではブダペストを中心に、歴史の概要を簡単に紹介していきます。


ここにもローマ軍が駐屯していた

 日本と違い陸続きのヨーロッパでは当然のことながら、今日まで同じ領土を持っていた国はありません。現在のブダペストに当たる土地にはイリア人やケルト人が紀元前10-5世紀まで住んでおり、その後1世紀から4世紀の間、ローマ帝国の軍隊がここに駐屯しておりました。

 そのためブダペスト市内には多くのローマ遺跡が発掘されており、センテンドレに行く途中のローマ人住居区アクインクムAquincumや水道橋跡、円形劇場などを今日も見ることが出来ます。

 当時はこの周辺のことをパンノニアPannoniaと呼んでいました。しかし度重なる多民族の侵入とローマ帝国の衰退によって後退を余儀なくされ、ブルガリアからのスラブ人が住むようになりました。


やっと馬に乗りやって来た元祖ハンガリー人

 ウラル山脈からの流れをくむハンガリー人(マジャール人)がカルパチア山脈を越え、この土地を征服たのは9世紀のことです。ハンガリー人たちは7つの部族長によってまとめ上げられており、その部族長達のトップがアルパードArpádでした。

 ハンガリー人にとって建国された年とされるのはこの地を征服した896年です。

 騎馬民族として西側諸国に大変恐れられていましたが、西欧進出に失敗したため政策を平和路線に変更しました。

 アルパード家のゲーザGézaによってキリスト教化が進められ、さらにはその息子イシュトヴァーンIstvánが1000年のクリスマスのときにローマ法王より王冠が授けられてハンガリー国の初代国王となりました。

 イシュトヴァーンは息子イムレImreと共にこの国にキリスト教を広めることに力を注いだため、死後2人は聖人として名前を刻まれることになりました。

 その後1241-1242年にヨーロッパ中を震撼させたモンゴル軍(タタール族)による侵略がありましたが、時の王ベーラ4世によって街は再建されていき、相続時に起こりがちな争いもあまり起こらなかったため安定した国として経済も順調に発展しました。


ついに登場オスマン・トルコ

 しかし1299年にオスマン・トルコ帝国が建国してからは、いつも東ヨーロッパはその脅威にさらされることになりました。

 トルコ軍はハンガリーに何度も触手を伸ばし戦火を交えましたが、1442年、1456年とフニャディ・ヤーノシュHunyadyi Jánosがトルコ軍を破りました。

 彼の息子マーチャーシュ・コルヴィヌスMátyás Corvinusがその跡を継ぎ、ハンガリーで最も安定した時期が続きました。彼は偉大な王のひとりとしてこの国では人気が高く、芸術や文学を推奨したため多くの芸術家などがハンガリーを訪れました。

 そのルネサンス芸術が華麗に花咲いた時代は、1526年現在南の国境近くのモハーチの戦いでトルコに大敗した事によって終わりを告げたのでした。  
 

トルコ軍との戦い
集中砲火を浴びるブダ
 

 それから160年間はトルコ支配が続くこととなりました。この160年の支配によってハンガリー中の街は破壊されてしまったので、現在ほとんどの建物はそれ以降に建てられたものになります(もちろん例外はありますが・・・)。


ハプスブルク家の支配

 そして1686年からハンガリーはハプスブルク家の支配下に入り、長い間のトルコ支配で人口は減り、経済的にも衰退していたためにハンガリーは移民政策をとることにしました。

 今までは異民族との交わりが比較的穏やかにおこなわれ、ハンガリー人の単一民族性を保ってきたのに対し、この政策により急速に多民族国家へと移行していきました。

 その間1703-1711年のハプスブルク家に対する独立戦争、1848年コシュート・ラヨシュKossuth Lajosによる独立戦争に破れ、さらには農奴制が残っていたため近代化が遅れました。

 しかし度重なるハンガリー人の独立に対する執念と、ハプスブルク家の衰退が1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国を認めざるを得なくなりました。それによりハンガリーは行政権を手に入れ、再び発展の道を歩み始めました。

 1896年は建国1000年記念という華々しい時期であり、次々とこの時代の最新建築技術を集めた建物が造られました。

 現在ブダペスト市内で見られる素晴らしい建築物は、この時代に造られたものがほとんどです。


常に誰かの支配下で・苦しい時代

 19世紀末から今世紀にかけての幸福な時期も歴史のいたずらか、第一次世界大戦の敗北によってトリアノン条約により国土の3分の2を失い瞬時に不幸な時代に逆戻りしました。

 この敗戦により二重帝国は消滅。それによりハンガリー共和国が宣言されたものの多くの領土を失い、天然資源や海岸線、さらには人口の3分の1が国外に取り残されてしまいました。

 暗黒時代へのベクトルはここで止まったわけではなく、失った領土を取り返そうとナチス・ドイツ側に立つ危険な賭けに出ました。しかし第二次世界大戦参戦後1944年にナチスによってハンガリー領土は占領され、ブダペストを含め各地で連合軍との戦闘が繰り返され街が焦土化してしまいました。

 最後はソ連軍によってブダペストは解放され、終戦を迎えたのでした。

 1949年、ハンガリー人民共和国が発足。共産党の一党制が導入されソ連の共産主義的な色に染まっていきました。

 半ば押しつけられた形での体制に1956年、民衆が蜂起したかの有名なハンガリー動乱が勃発。それによりナジ・イムレNagy Imre首相は秘密裏に処刑され、長い間彼の名前を口に出すことがタブー視されていました。

 人々は秘密警察の影に脅え、知識人の流出、非効率的な農業・工業政策は近隣西側諸国と決定的な差を生み出してしまいました。


新しい風・自由

 時代の流れはやはり共産主義に味方をしませんでした。

 旧ソ連書記長ゴルバチョフのペレストロイカ、グラスノスチ政策に東欧諸国は力づけられ、ベルリンの壁の崩壊と共に一気に自由の風が社会主義を一掃しました。

 1989年10月23日国会議事堂のバルコニーより、新生ハンガリー共和国の発足が宣言されました。

 複数政党制の導入後1990年4月に40年ぶりの自由選挙が行われ、第一党のハンガリー民主フォーラム、アンタル・ヨージェフ内閣が生まれました。

 しかし4年後の選挙では旧共産党であるハンガリー社会党のホルン・ジュラ首相が政権を握り、更には1998年には若干35歳青年民主連盟のオルバーン・ヴィクトルが首相になるなど、常に第一党で居続けることができない政治の不安定さは、ハンガリー国民の心の揺れと気持ちが反映されています。

 2002年の総選挙では社会党が連立を組んだとは言え、またも与党へと返り咲き、未だどの政党も二期連続して政権を握ることができません。
 


ジュルチャーニ現首相
 
 
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